ヤクザと日本
- 作者: 宮崎学
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/01
- メディア: 新書
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小学生のころ、同級生にヤクザの組長の息子がいて、家に何度かいったことがある。要塞みたいな家で、大きな犬がいて、印象的だった。そのことを親に言うと、もう行ってはいけない、と言われた。
1970年代生まれのわたしは、ヤクザの存在意義というものがよくわからない。本書の著者は、
ヤクザは、一般的には、いまは「暴力団」というなんとも無粋な名前で呼ばれ、暴力によって私利私欲を図る悪辣な集団と考えられている。(11ページ)
としている。いかにも、「でもそれは違うんだよ」と言いたげで、そこに興味がわいてこの本を読み始めた。
かなり端折ると、近代ヤクザは、明治維新後の近代化のなかで、炭鉱・港湾・土建といった分野の下層労働階級の束ねと仕切りのために自然発生したという。それが、戦後の高度成長後にようやく不要となり、むしろ社会から邪魔な存在となっていった、と著者は説く。
わたしが生まれたのは、ヤクザがすでに不要となった時代だったから、前述のようにその存在意義がわからなかったのだろう。
武士道と任侠道の関係についても、面白い。
徳川中期から日本化した朱子学によって解釈された武士道は、日本固有の武士の思想としての武士道とは異質なものに変貌してしまったのであり、(203ページ)
とし、ヤクザの任侠道のほうが、もともとの武士道によほど近い、とする。なるほど、とも思うが、これはあまりにヤクザ寄りの視点かもしれない。武士道は変貌したのではなく昇華したのだと思うし、だからこそ、明治維新前後にはスケールの大きな日本人が活躍したのだろう。
また、本書では触れていないが、武士道から「武」をとってさらに煮詰めたような「士道」を掲げた新選組が、武士階級ではない、それこそ侠客のような階層から出てきたのも、面白いことだ。
余談だけど、冒頭に出た同級生の父、つまりヤクザの組長なんだけど、何かの事情で警察に追われて隠れていたのに、運動会に息子を見に来て、張り込んでいた警察に捕らえられた、というのを後で新聞の報道で知った。ヤクザの組長といえど、人の親なんだな、と思った。