勝間和代の日本を変えよう

勝間和代の日本を変えよう Lifehacking Japan

勝間和代の日本を変えよう Lifehacking Japan


良い本でした。

若い世代が持つ閉塞感、男女共同参画ワーキングプアといった現代の日本が抱える様々な問題を論じ、最後にポスト資本主義を考える、という構成。

有史以来、人類の社会は、発展によって富の偏りを生み、食えない下層階級が反乱し、それが革命となって国というものを形作ってきた。あるいは、他国との争いで勝つか負けるかして、国が無くなったり、変わったりすることもある。つまりは、極論なんだけど、手っ取り早く社会の枠組みを変える手段は、暴力しかなかった。少し前に話題になった論文「31歳フリーター。希望は、戦争。」も、もはや暴力でしか枠組みを変えることができない、という絶望感が背景にある。

暴力による革命はコストが高く付く。だから民主主義が生き残り、選挙というシステムで社会を変革できるようにしたはずだ。しかしながら、戦争による変革を望む人々が現代日本に出現するということは、どういうことだろうか。

ワーキングプアの階層が、民主主義に参加しようとしてもできず(住所が不定なので選挙に投票できない)、政治がこの問題を実感できていない、というのは大きな問題だ。多様な世代が政治に参加するというのはとても大事なことで、たとえば中世の日本の村社会では、自治を司るのはやっぱり年寄り(ヲトナ)たちなんだけど、若い世代(ワカモノ)もそこに参加するシステムがあった。

自治におけるワカモノの役割は、暴力。他村とのさまざまないざこざを、力ずくで解決するときには、ワカモノが負う軍事力が要となる。ワカモノは、それをより所として自治に参加し、一定の発言権もあった。ヲトナとの対立も、よくあったが、村の軍事力を負うワカモノの力は、今の社会のワカモノよりも大きかっただろう。

村の幼年者はいつかワカモノの集団に組み込まれ、自治に参加したワカモノもいつかヲトナに移行し、また新たなワカモノたちが自治に参加する。この循環があり、村の自治は保たれていた。ちなみに、中世の自治は、現在の町内会の自治とは大きく異なる。「自力救済」の中世においては、社会保障など皆無で、村の自治の失敗は即、財産の消滅や命にかかわるから、当時の自治とは政治に近い。

社会の枠組みを変えるのも、若者の政治への参加も、暴力がキーワードとなってしまったが、当然ながら、暴力による問題解決を期待しているわけではない。しかし、何らかの対策をとらねば、長い目で見ればいつかは暴力による革命か、あるいはそれに準ずるほどの高コストで変革を強いられることとなるのではないか。

先ほど、国というものが、発展と富の偏り、そして革命の繰り返しで作られてきた、と述べた。中国などは、まさにこの繰り返しでわかりやすい。しかし、ちょっと違う歴史を歩んできた国がある。日本がそうだ。

日本の歴史は、他国と比べて、ちょっと特殊だと思う。その中でも、特別に特殊なのが、明治維新だ。ドラッカーも「明治維新というのはよくわからない」と述べている。確かに、いわゆる革命とは違う。これがいったいなんであったのかは日本人にさえよくわからないのだけど、現代まで続く近代日本の出発点となったのは、確かにこの明治維新なのだ。

近代日本は、西欧列強の東洋侵出に一矢を報い、世界の枠組み形成に影響を与えたのは間違いない。ならば、ポスト資本主義をもまた、日本が世界に示してやろう、というぐらいの志を持っていいのではないか。何の根拠もない思いこみで、楽観すぎるかもしれないけど、それができる国の一つが日本ではないかと思うんだけどね。