麻生とオバマ

アメリカの新大統領がすごい人気だ。まるで英雄ではないか。政治家が英雄たり得る事など、現代日本では考えられない。この人気の原因はなんなのだろうか。アメリカ在住歴が長い、クォーターの友人に聞いてみた。
「白人ではない者があの国のリーダーになるってのは、すごいことなのよ。つーか、今頃そんなクエスチョンが出てくるなんて、あんたよっぽどバ(以下略)」

いや、わたしの疑問はそういうことではない。つまり、そう、アメリカがアメリカのリーダーを英雄にするのはぜんぜんかまわないのだが、日本までかの国のリーダーを英雄視しているのはどういうことなんだろう、ということなのだ。ある新聞の報道では、「日本の首相に期待できないから米大統領に期待する」というような日本国民の声が載っていて、わたしはしばらくその意見の意味がわからなかった。その記事によれば、米大統領が、日本のためになにかしてくれると、期待している日本人がいるようなのだ。

他国のリーダーを英雄視しながら、自国のリーダーに対しては揚げ足をとり、おとしめようとする。ほっけの料理法を知らなかったり、インスタントラーメンの価格を知らなかったりするのがそれほどだめなことか。漢字の読み方がアレなのも、百歩譲ろうではないか。私たちのリーダーは、オバマなのではなく、かれなのだから。

日米のリーダーの選出法の相違を取り上げ、「おれはあんなリーダーを選んじゃいねえ!」と駄々をこねることもできる。しかし、もっと根本的な意味で、やはりかれは日本が選んだリーダーなのだ。狩撫麻礼は、「すべてのものは相応しいものを得る」と言ったが、そういう意味において、現首相だけでなく、私たちが今まで得てきたリーダーは、私たちにふさわしかったといえよう。

「上司にしたい歴史上の人物」といった企画で、決まって上位に来る織田信長や坂本龍馬といった面々。こういった、時代の閉塞を打ち破ってきたリーダーが現代日本に生まれないのも、かれらが私たちにふさわしくないからなのだ。

せめて、私たちは、かっこいいリーダーが生まれるような土壌を、この国に作らなくてはならぬ。ケネディは、就任式の演説で「アメリカが諸君になにをするのかではなく、諸君がアメリカのためになにをするかだ」と言ったが、そういった姿勢、つまりは「公」という概念が、私たちにはずいぶん長い間、欠けているのではないか。

最後の引用までアメリカ大統領の言葉になって、ちょっとどうかと思ったが、これで終わり。