日本を貶めた10人の売国政治家

日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書)

日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書)


刺激的なタイトルなので書店に平積みされたときは目立っていたが、次の日に書店をのぞくともう売り切れていた。

選挙を前に、国民の政治への関心は高いのか。首相が一年でその座を投げ出し、次の首相もまた投げ出し、その次の首相は支持率がガタ落ちで、対する野党のトップは友愛というわけのわからないものを語る。それでも、国民である限りは政治に期待したいのだ。

近年の投票率の低迷は、皆が政治に無関心なのではなく、与党も野党も烏合の衆で、どっちに投票していいか判断がつきにくいからだろう。そういう意味では、こういう政局にしてしまった、この本にもランキングされているあの人の罪は重い。

3位にランキングされたあの人の政策について、「アメリカ式の実力主義、個人主義を導入し、日本人の強みである『和』を破壊した」としている。これには色々と考えさせられた。

先日、お客さんのところに訪問するため、西舞鶴駅でおりて、トイレに入ったんだけど、ちょうど掃除中で、作業員さんが二人、洗面所で議論をしていた。用を足しながら聞いていると、どうやら、より効果的な、きれいになる掃除方法について、先輩と後輩が議論をしているようだった。

私はちょっと感動した。トイレ掃除について、それを業としている人々が、真剣な議論をする。これこそ、日本人の誇る「和」ではないか。

さらに、私が手を洗おうとすると、作業員の方は「すみません、きれいになってなくて」という。議論していて、掃除が遅れたことをわびたのだろう。これも、そこを使う人のことを気づかう「和」に違いない。

私は、「いや、十分にきれいですよ」と答え(実際、十分にきれいだった)、作業員の方に感謝しながら手を洗った。この感謝の気持ちも、また「和」なのだ。

資本主義のこの世で、確かにカネは大事だが、西舞鶴駅のトイレにおけるこの出来事は、世の中決してカネだけではないことを示唆しているのではないか。そして、個人主義、実力主義のアメリカや中国では、こういったことはあり得ないだろう。

また、こんなこともあった。私が喫茶店で一服中、となりの席で経営者らしき人が、社内の幹部らしき人と、電話で打合せをはじめた。

そのリーダーが、ある社員の力量に疑問を持っており、その部署にいてもらっては困る、ということを社長に訴えているようだった。

社長は、こう言った。
キミは彼に辞めてほしいようだが、私の会社は、辞めていく人は別として、今までこちらからクビにした人は一人もいない。それが私の自慢だ。彼の力量に問題があるなら、彼が活躍できるような場を与えてあげるのも、リーダーの仕事なのだ。

私は、ちょっと感動した。経営者というのはこういう考え方をするのかと、衝撃を受けた。日本の旧来の雇用形態を語るとき、「終身雇用」「滅私奉公」などと、ネガティブな意味を込めて揶揄することが多い。確かにそこには弊害もあるのだろうが、良い面(つまりは「和」だ)もあるのだと、今さらながら気付いた。

グローバル化の波が押し寄せ、企業が焦ってアメリカのやり方を導入し、あろうことか国がそれを後押ししてしまったところに、間違いがある。衆院選を一回やったぐらいでは、間違いはただせそうにないが、せめて端緒ぐらいにはしたいではないか。